自由に生きたいのに、
全然自由に生きられない
と思う人は多いと思います。
かつて、わたしもそうでした。
少しづつ、自由を制限をしているのは、
自分自身の思考の習慣であったことに、
気がついていきました。
どのように、
自由になっていったのかを、
お伝えします。
昔のわたしの思考
自由になれない人は、
多くの制限があると思います。
例えば、
・仕事をしなければならない
・子どもの面倒をみなければならない
・家事をしなければならない
・仕事は休むべきではない
・子どもは10時までに寝させるべきだ
・洗い物は寝る前に必ずすべきだ
・仕事は完璧にすべきだ
などと、制限がある状態です。
真面目や、完璧主義の人に多い傾向だと思うのですが、
『~ねばならない・~すべき』
と、自分のねばべき論ルールがあると思います。
これにとらわれているときは、
きっと人がそれをしてたときは、
とっても怒りを覚えると思います。
例えば、
仕事を休むべきではないと思っている人が、
Aさんが仕事を休むと聞いたとしましょう。
Aさんに、
むかついたり、
怒ったり、
なんで私ばかりと感じたり。
下手したら、一日中そのことが、
頭にあるかもしれません。
さらに、Aさんの仕事が回ってきたときには、
憤慨しているでしょう。
このように、
自分に制限をかけているものを、
人がしたときの人の反応は、
とっても顕著にでます。
逆に、
仕事は休んでもよいと考える人であれば、
Aさんにたいして、
休んだのね~。
昨日、具合がわるそうだったもんね。
早く良くなると良いな。
などと違う視点で物事を考えます。
こう考えると、ねばべき論は、
自分が、勝手にルールをつくり、
制限がある状態だと言えます。
この状態では、
自由になれないのは、
お分かりいただけたと思います。
客観的に自分をみる
ねばべき論にとらわれているときは、
人は客観的になることはできません。
休むべきではないと思うならば、
休んではいけないという、
一つの答えしか見ることはないでしょう。
客観的に見れたら、
その一つに向けてた分のエネルギーを、
分散させて他のことをすることができます。
わたしがどのように客観的に、
見れるようになった変遷をお話しします。
①自分の考えが凝り固まっていることを知る
②ねばべき論があることを知る
③ねばべき論にとらわれている事象を書き出す
④事象に紐づく感情を知る
⑤その感情に基づいた行動をする
必要があれば、
⑥ねばべき論にとらわれていた事象をする
ということを繰り返してきました。
自分を客観的に、
観察をしてきたということになります。
自己分析ではなく、
観察をいう言葉を、
わたしが今使っているのは、
そのほうが客観的に自分をみれると思っているためです。
ねばべき論にとらわれている間は、
自分ルールに当てはまらない行動をしてしまった場合、
自分を責めたり、嫌ったりする傾向があったからです。
そして、その囚われた事象から、
脱するのに時間を要します。
そのため、自己観察をしようと
第3者の目線をとることがポイントだと感じています。
①自分の考えが凝り固まっていることを知る
あなたが、もし義務的に何かをしないと
と思っていることがあったら、
凝り固まっていることになります。
今、振り返ってみて、
そのように感じたならば、
凝り固まっているかもしれないと、
思ってみるのも一歩かもしれません。
0か100ではなく、
中間の選択もたくさんあります!
②ねばべき論があることを知る
わたしは、
ねばべき論があるということを、
知りもしませんでした。
そうとう凝り固まっていたのでしょうね。
これをするのが正義というように、
自分が思っていることは、
他の視点があると考えにくいと思います。
そのため、
ねばべき論というものがあることを知るだけでも、
とても視野が広がりました。
③ねばべき論にとらわれている事象を書き出す
あなたは、どんなねばべき論にとらわれているでしょうか?
私の場合は、
これをしないと!強く思っていることを
書き出してみるのが有効でした。
例えば、
・仕事に遅れてはならない
・仕事は這ってでもいくもの
・人の悪口を言ってはならない
・電車は遅れてはならない
・プロであれば、いつでも絶対に完璧でないといけない
・食事は作るべき
などを、考えていました。
今は、
このべき論が外れているので、
上の言葉は、表現が柔らかいのですが、
昔は、もっときつい言葉で考えていました。
当時のままの言葉を書きたかったのですが、
思い出せませんでした、、、。
④事象に紐づく感情を知る
ねばべき論に紐づく、
感情を考えたことがあるでしょうか?
わたしは、全く考えたことがありませんでした。
それほどまでに、
自分の考えはそれしかないというふうに、
なっていたのだと思います。
例えば、
仕事は休むべきではない
という言葉に、どんな感情が思い浮かびますか?
ものすごい怒り、だとしましょう。
その怒りを感じると、
どんなことが思い浮かびますか?
・わたしも休みたいのに
・わたしも疲れているのに
・なんであの人ばかり、休んでずるい
・この仕事やめたいな
・今日ランチいく約束していたのに
など違う考えが生まれてくるかもしれません。
わたしも休みたいのに
と思考が出てきたとしたら、
本当は休みたいのに、
我慢していたから、
怒りが湧いてきたのかもしれませんね。
ねばべき論にとらわれているときは、
感情すら感じないように、
ストップさせている時が多いなと思います。
⑤その感情に基づいた行動をする
休みたいと思ったら、
休めばよいと思います。
ここであなたは、おそらく、
そんなのできるわけないじゃん
と思うかもしれません。
わたしもそうでした。
しかし、考えてほしいのですが。
休むというのは、
1日、休まなくても良いのです。
たった数秒でも、
自分で意図的に休もうと感じるだけで、
その休むことに繋がります。
怒りの下で、本当はしたかったこと
=
今していること
が、リンクすると、
あなたの感じ方はとても変化すると思います。
⑥ねばべき論にとらわれていた事象をする
本当に、仕事を休んでみるのも、
一つの方法です。
その行動をすることができたとしたら、
ねばべき論は、
ほぼなくなっているに近いでしょう。
余談ですが、コロナ禍で、
仕事を休むことに関して、
社会的に寛容になったなと感じます。
コロナ前と、コロナ禍では、
休むという価値観が、
あなたも変化したのではないでしょうか?
このように、文化、社会で生きている我々は、
多かれ少なかれその影響を受けながら、
自分を縛るルールを作り出していることもあります。
そのため、
自分のルールを、
自分が置かれている場所での暗黙の了解を、
一度再考してみるのは、
とても良いことだと思います。
自由になるには
自由になるには、
自分のねばべき論がいかに大切かが、
伝わったでしょうか?
わたしは、
一連の流れを、
何度も同じ事象でも繰り返すことで、
様々な認知の歪みがとれました。
ねばべき論は、自分勝手
いかに、自分のねばべき論で、
勝手に人を判断していたかということを理解したとき、
人にも、自分にも寛容になりました。
そのため、
瞬間的な感情が揺れ動くことも少なくなり、
一つの事象にずっと囚われることも少なくなり、
新たな視点、選択が楽にできるようになりました。
そして、
もっとも忘れてはならないものは、身体です。
ねばべき論をしている時は、
身体も、緊張したり、固まっていたりします。
身体の観察も大切
メンタルを、
客観的に見ることができるようなったのは、
身体の観察も丁寧にしてきたからだと思います。
ちょっとしたときに、
身体が固まる、緊張する
それは、なにを感じているからなのかと考えると、
悶々とした時間を経て、
これだと閃くことが多くありました。
自由に生きたいときに、なにをしたらよいのか?(身体編)は、こちら。
さいごに
自由になるには、
ねばべき論を解き放つことが、
大切だとお伝えしてきました。
わたし自身も、
少しづつ、自由を制限をしているのは、
自らの思考の習慣であったことに、
気がついていきました。
心の観察や、身体の観察は、
直ぐにできるようになるものではありませんが、
コツコツと続けて行けば、
大きな変化につながります。
ねばべき論から解放され、
もっと自由に生きられる人が増えますように!
自由に生きたいときに、なにをしたら良いのか(身体編)
自由に生きたいときに、なにをしたら良いのか(感情編)
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